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三崚堂ブログ

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昔の夢

前回は猪木ネタでした。何を隠そう私はその昔、大のプロレス少年でした。

中学生当時、世の中はチェッカーズ全盛。周りの女子達はほとんど「私はフミヤ」、「アタシはナオユキ」みたいな感じでそれぞれ担当(?)が決まっており、グラビアの切り抜きを透明な下敷きにはさんで見せ合いっこしていた。
私の下敷きはもちろん、表はアントニオ猪木、裏が初代タイガーマスク。
額から血を流しつつ、ディック・マードックの金髪を鷲掴みにして何か吠えている(たぶん「ダッシャー!」と言ってる)一枚が一番のお気に入りで、それを忍ばせ、ひとり悦に入ってたのを思い出す。
その頃の私はオリジナルの必殺技を持っていたのだが、のちに木村健吾が『トライアングルスコーピオン』という名で使い始めた。どこかで健吾に見られたらしい。

高校受験の模擬面接で、「尊敬する人は誰ですか?」という質問に「アントニオ猪木さんです!」と答えると、「真面目に答えなさい!落ちるぞ!」と叱られた。猪木を尊敬したら受験に失敗するのか???

プロレス熱は高校に入っても冷めず、将来、身長が180cmを越えたらプロレスラーになろうと夢見、いつか来るその日の為に格闘技を身につけるべく少林寺拳法部に入部した。部ではまともに練習もせずサンドバッグ相手にローリングソバットやフライングニールキックを打ち込み、ぶら下がっているサンドバッグをはずしてバックドロップやスープレックスの練習をした。

大学に入って身長の伸びが止まってきた。このままではジュニアヘビーか…、ジュニアヘビーなら空中殺法が必要だ!と思い立つ。私は夜な夜な近くの空き地に出向き、枯れ草を大量に集めてフカフカのマットを作り、後方宙返り(いわゆるバック宙)を練習してモノにした。

一人暮らしの部屋にはウェイトマシーンを用意し、プロテインを飲みながら、今では想像もつかないようなマッチョなボディを作り上げた。

…こんなことを大学生になってまでやっていたのだから、今考えたら呆れてしまう。

当時東京に住んでいたら本当にプロレス団体の入団テストを受けていたかも知れない。しかし札幌に住んでいた私は札付きの億劫・出無精野郎だったので、東京への一歩を踏み出すことはなかった。プロレスラーへの思いもそのくらいだったということでしょうか。

今のプロレス界は当時の勢いを全く失い、プロレスラーになっていなくて良かったなと思わせられる。しかし、もしなっていたとしたら…。
…そろそろ引退でもして、専属のトレーナーにでもなり、やっぱりせっせと鍼を打っていたのかもしれません。
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2007年3月、満を持して治療院を開業しました。

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